不耕起と高畝の「矛盾」
無農薬、無施肥、不耕起で様々な生命の力を借りて行う協生農法。
大原則として「土を耕さないこと」が挙げられています。
耕すことは、植物や微生物が少しずつ時間をかけ築き上げてきた「土壌」を破壊することと同じ。
これはブログの中でも幾度となくお伝えしてきたことです。
では、私が先日まで行ってきた「高畝化」は耕起にあたらないのか。
はい。物理的には「耕起」に該当します。
「耕してはいけないんじゃなかったの!? 思いっきり矛盾しているじゃないか!規則違反だ!!」
そう思われる方も少なくはないでしょう。
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「不耕起」の意味を理解すること
無農薬、無施肥、不耕起は「農薬や肥料を使ってはいけない。耕してはいけない」というよりは
「農薬や肥料は使う必要がない。耕す必要がない」。
環境、身体への影響を考えない場合、わざわざ余計なことはしないという意味として捉える方が正しいのではないかと思います。
では私の「高畝化」は余計なことではないのか?
長期的な尺度で考えれば、明らかに「余計なこと」でしょう。
わざわざそんなことをしなくても植物たちは土に根を張り、徐々に水はけもよく正常な土壌へと変化させてくれますからね。
私のやっていることは「余計な事」に違いありません。でも「してはいけないこと」ではない。
今までの畝は雨が降ったら水没するほど低い位置にあります。
高畝にすることで水はけがよくなり植物が茂りやすく生物のエサや隠れ家にもなるなど、短期的に計画の意図があるなら一度リセットして見守ってもいいのではないかと思うのです。
一度高畝化にしてしまえば、それ以降その場所を耕すことはありません。
「何があっても絶対に土を耕やしてはいけない」と不耕起という字面に縛られるのではなく、
不耕起の本質である「何故耕さないのか」「耕す必要がない余計なこと」を理解したうえで、自分の頭で考え、畑の様子をみながら感じたことを試していくのも一つの手ではないかと思います。
最終的には「余計なことだったね」になるのですが、そこに向かう過程というのですかね。
矛盾と捉えるのも自由、前向きな実験と捉えるのも自由。
多分ね、どちらでも大丈夫です。柔軟な思考で自分で楽しみながら好きにすればよいと思います。
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